2004年 07月 21日
我が心のFranchot Tone(フランチョット・トーン)
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初めてのブログ、さて何から書こうかと迷いながら、まず私の大好きな
Franchot Tone(フランチョット・トーン)の事から書く事に。
Franchot Tone(フランチョット・トーン)略歴:
生年月日:1905年2月27日
アメリカ、ニューヨーク州ナイアガラフォールズの大富豪の家に生まれる。
少年時代をすごした家はナイアガラフォールズのランドマークであるWhitney Mansion。
父・Frank Jerome Tone(フランク・ジェローム・トーン)はアメリカ工業界では著名な発明者であり経営者(カーボランダム アメリカの会長)
カーボランダムとは炭化珪素結晶でダイヤモンドに次いで硬いので
現在でも研磨剤として各方面に利用されている
また電気を通す性質もあり、音響関係にも利用されている。
母・ガートルード・フランチョット・トーン(Gertrude Franchot tone)は,
初めての女性コラムニストである作家
ドロシー・トンプソン(Dorothy Thompson 1893-1961)
と同性愛の噂があった。
NY社交界の花で、婦人参政権論者として有名な女性。
この二人の結婚は当時NYタイムスの社交欄に掲載されている
フランチョットは名優を多く輩出している事で有名な
NYのアクターズスタジオ(Actors Studio)の前身となった
グループシアター(Group Theater)の創設メンバーで、
1920年代後半より1930年代までは映画で活躍するが、
その後は主にブロードウェイで活躍する。
Actor's actor(俳優の中の俳優)と呼ばれる。
悪女で有名(?)であったJoan Crawford(ジョーン・クロフォード)の
2番目の夫で、知性とクラスを感じさせる俳優として名を残す。
アメリカ俳優史上でも一,二を争う様な名優でありながら、
アカデミー賞ではノミネートのみ。
バウンティ号の反乱(1935年米 Mutiny on the Bounty)にて。
その年(1935年)には助演賞の制定が無く、主演賞のみであった。
ちなみにその年のその他のノミネートは
クラーク・ゲイブル(Clark Gable)
チャールズ・ロートン(Charles Laughton)
受賞はヴィクター・マクラグレン(Victor McLaglen)
男の敵 (1935 THE INFORMER)にて。
私がフランチョットに引き寄せられていったきっかけは、
かつて、クラーク・ゲイブルの若かりし頃に夢中で
ゲイブルの初期の作品を探して見ていた事から始まりました。
Dancing Lady(1932年)という
クラーク・ゲイブル(Clark Gable)と
ジョーン・クロフォード(Joan Crawford)主演の作品の中の、
この上も無く「いなせ」で、圧倒的なクラスを感じさせるキュートな俳優に
目がくぎ付けとなりました。
彼は誰よりも演技に深みがあり、さりげなくリアルで、
20代でいながら、ものごしはクラスを感じさせ、
英国で生まれていたなら、
サーと呼ばれた様な素晴らしい声とセリフ回しで、
その存在感は他を大きく圧倒して、
後にプライドの高いジョーンでさえ、
映画をフランチョットに盗まれたと評した程です。
圧倒的な美貌!
ちなみにこの映画は
ダンスの神様フレッド・アステア(Fred Astaire)のデビュー作で、
プロデューサーは「風と共に去りぬ(Gone With The Wind)」で
名を上げたデーヴィッド・O・セルズニック(David O. Selznick)
1932年、アメリカが未だ大恐慌の余波で痛手を受けて
大衆の生活には夢の無い時代に、
豪華絢爛たる世界を見せて大ヒットした作品。
フランチョットは上流階級の出身というだけでなく、
もともとコーネル大学では言語学(ローマン)を専攻して
語学教師を目指していた人ですので、
言葉に関しては際立っていて当たり前かもしれません。
by franchot-joan
| 2004-07-21 13:04
| Franchot Fact